今回は6月27日に発売された新作アドベンチャー『岩倉アリア』のクリアレビューとなります。耽美な世界観と幻想的なグラフィック、そして力強いジェンダーメッセージが特徴の『岩倉アリア』は、国内でまだ珍しい「シスターフッド」の物語を見事に描いています。「GL(ガールズラブ)」や「百合」といった要素を経て、女性同士の連帯を描く筆致は素晴らしく、新しい時代の到来を感じさせる、まさに力強い一作です。それでは詳しいレビューに入っていきましょう。
『岩倉アリア』のポイント
『STEINS;GATE』や『B-PROJECT』のMAGES.の完全新作タイトル
舞台は一九六六年、夏の日本
耽美な世界観と幻想的なグラフィック、そしてジェンダーイデオロギー的メッセージ
女性同士の連帯・「シスターフッド」の物語
『岩倉アリア』とは
まずは、作品概要から紹介していきましょう。本作は、『STEINS;GATE』や『CHAOS;HEAD』といった「科学アドベンチャーシリーズ」をはじめとして『Memories Off』や 『B-PROJECT』など数多くのアドベンチャーゲームを手掛けるMAGES.の完全新作タイトルです。これらのラインナップからも汲み取れるように、MAGES.は、SF的な舞台設定や男女関係を描くタイトル、乙女ゲームなどをリリースしてきたパブリッシャーですが、『岩倉アリア』はこれまでの作品とは少々毛色の異なる作品です。
公式サイトの言葉を引用するなら、『岩倉アリア』は、登場人物の心の動きに重きを置いたアドベンチャーゲームであり、多様なセクシュアリティを持つキャラクターが登場するサスペンス・ヒューマンドラマです。とりわけフィーチャーされるのは、人間関係が交錯する中で女性同士の間に生まれる「絆」であり、作品の中心テーマとして据えられています。
また、本作は「リアルファンタジー・サスペンスアドベンチャー」という聞きなれないジャンル名が付けられています。ファンタジーという言葉が示す通り、ゲーム内で起きる事象や描写の全てが現実に即しているわけではありません。上記に引用しているプロモーションビデオにおいても「岩倉アリアは人間ではない!」という台詞が挿入されているように、作品では超自然的で伝奇的な設定も登場しています。
企画・シナリオは、MAGES.の『B-PROJECT』コンシューマー版『B-PROJECT 流星*ファンタジア』のシナリオを手掛けた午後ねむるさん。ディレクターは、『プラスティック・メモリーズ』のゲーム版でディレクターを務めていた水野枝里子さんが担当しています。ゲームプレイそのものは、非常にオーソドックスなアドベンチャー形式ですが、耽美な世界観と幻想的なグラフィック、そしてなにより強固なメッセージ性を持つ力強い作品に仕上がっています。
イントロダクション〈一九六六年、あの夏を覚えている。〉
続いては、アドベンチャーゲームとして最も重要なシナリオについて紹介していきます。ゲームの舞台は一九六六年、夏の日本。主人公・北川壱子は 孤児として養護施設で育った人物であり、中学卒業後の15歳で一度は建設会社に働きに出るも、一年余りで退職。施設に戻り肩身の狭い生活を送っていました。
ですが、あるとき壱子の人生にあまりに大きな転機が訪れます。蚤の市(のみのいち)において、壱子が描いた簡単なイラストが旧華族の富豪・岩倉周(いわくらあまね)に認められ、彼の屋敷で女中として働くように勧められるのです。
不幸続きで半ば傷心気味だった壱子にとって、またとない機会とあって、少々「上手くいきすぎた状況」ではありますが、彼女は、岩倉家で働くことを決心します。この時点では、壱子が慣れない環境で周囲の助けを借りながら成長していく、ある種のサクセスストーリーのように思えるかもしれません。
しかし、「岩倉邸」での生活は「普通」とは異なる出来事の連続でした。その最たるできごとこそ岩倉の娘・岩倉アリアとの出会いです。公式サイトの文言を引用すると、アリアは神々しいほどの美貌を持ち、他人を寄せ付けない冷たいオーラを放つ人物。身体が弱く、小食で、自宅学習をしており、屋敷からほとんど出たことがないといいます。壱子のこれまでの人生で出会ったことのない存在・アリアとの邂逅(かいこう)によって、壱子の人生の歯車が大きく動き出します。
当初は、壱子に興味の無かったアリアですが、壱子の絵画の才能があると分かると、二人の関係が少しずつほだされていきます。見た者を魅了する神秘性と時折見せる微笑み。物語的な機能という意味ではアリアはファムファタルのような存在といえるでしょう。壱子はアリアとの交流を通じて、次第に彼女を想うようになります。しかしそれと同時に、壱子は岩倉家の裏側に潜むおぞましい秘密に近づいていくことになります。
ゲームでは、一九六六年という目まぐるしい変化を遂げる日本の中で、社会から取り残された壱子と、社会から逸脱するアリアとの出会い。そのノイズがステレオタイプな「社会の在り方」を捉え直す「シスターフッド」として展開されます。
丁寧なゲームプレイについて
もう少しテーマ性について深掘りしたいところですが、一旦ゲームパートについて紹介します。冒頭でも述べたように、ゲームパート自体は特に新規性はありません。
プレイヤーは、主人公である壱子の視点で屋敷を探索しながら人々と会話をし、屋敷に隠された秘密を明らかにしていきます。いわゆる、ミステリーや謎解き作品ではないため、プレイヤーが自ら推理を行うパートはなく、基本的にはテキストを読み進めることがゲームプレイの中心です。多くのアドベンチャーゲームと同じく、会話を読み、選択肢を選ぶことで物語が進行し、選択によってはバッドエンド・トゥルーエンドにたどり着きます。ゲームでは、9つのエンディングと、短いサイドストーリーが用意されており、プレイ時間は全体で10時間ほどとなっています。
ノベル系のタイトルをプレイしたことのないユーザー視点ですと、アドベンチャーゲームなんてほとんど同じでは?と思うかも知れません。確かに、操作スタイルや機能は似ていますが、ユーザビリティには大きな違いがあります。特に、メーカーによっては、マウス操作を前提とするPC版をそのままコンソールに移植していたり、可読性(かどくせい)に欠けるフォントを使用しているなど、細かな配慮が行き届いていない作品も多くあります。
その中で、本作はアドベンチャーゲームの総本山の一つであるMAGES.が手がけているため、ユーザーインターフェースやユーザビリティに細かく配慮されています。
「まなざし」と自己の獲得について
・「シスターフッド」の物語として
ここまで、作品を俯瞰する視点から、ゲーム概要やあらすじについて見てきました。ここからは、もう少し作品テーマに近づく形で、作品読解を進めていきます。冒頭で述べたように、あくまでも公式サイトやPV・体験版の範疇での言及となりますので、少々分かりづらい点もあるかと思いますが、その辺りはご容赦ください。
まずは、作品のテーマ性について改めて振り返っていきます。あらすじの項目でも紹介したように、本作では女中の北川壱子と、岩倉邸の娘・岩倉アリアとの間に生まれる「絆」が物語の骨子として構成されています。より分かりやすく言えば「GL(ガールズラブ)」や「百合」という言葉に内包される関係性を描いた作品です。
ですが、実際にプレイを進めると分かるように、いわゆる「GL(ガールズラブ)」や「百合」といった作品が扱う「身分」や「性差」といった道徳的な葛藤が本作では重視されていないことに気が付くと思います。実際、作中では「壱子」が「岩倉アリア」に好意を向ける過程や、当時であればあったであろうジレンマのような感情には焦点が当てられていません。むしろ、壱子の視点では、アリアに会いに岩倉邸を訪れる各国の要人や旧華族、彼らがアリアを見る視線への苛立ちのような感情に重きが置かれています。
もちろん、油絵を執筆する壱子と、その姿を見守るアリアというような「GL(ガールズラブ)」的な描写もありますが、むしろ本作において重視されるのは、「同性愛」自体への洞察ではなく、神々しいほどの美貌を有する岩倉アリア・その人に対する「まなざし」です。
・「まなざし」の暴力性
「まなざし」とはどういう意味でしょうか。
少し難解な話になりますが作品の解釈のために解説を続けていきます。「まなざし」とは、他者を見つめる行為が持つ潜在的な攻撃性や抑圧的な力を指す言葉です。この概念は、特にジェンダーや権力関係の文脈で議論されており、誰がどのように見られるか、そしてその「見ること」によってどのような影響が及ぶかを考える上で重要な考え方です。
『岩倉アリア』では、この「まなざし」とそのことの持つ「暴力性」が、作品に通底するテーマとして一貫しています。たとえば、フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、1975年の著作『監獄の誕生』において、「まなざし」が監視と支配の手段として機能していることを論じました。フーコーは、様々な隠喩を用いて「監視」によって人々は、本人の意図せず自らを規律し、権力に従うようになる、ということを紹介しています。この構造は、アリアと、彼女を「まなざす」各国の要人や旧華族の関係を理解する上で非常に有用です。
「まなざし」の議論を広げる手がかりとして、ジュディス・バトラーの1990年の著書『ジェンダー・トラブル』も有効です。バトラーは、ジェンダーは一連の繰り返し行動によって「演じられる」ものであり、そのパフォーマンスが社会的な規範や期待に基づいて行われるという「ジェンダーのパフォーマティビティ」という理論を提唱しました。
要するに「まなざれた人物」は自らの主体性を否定され、他者の欲望や期待に応じた存在として振る舞うようになる、ということです。誰かが望む「あるべき姿」や期待に沿うために自分を監視することも、まなざしの暴力性の一環なのです。
これらの議論は、本編をプレイ済みであれば、いくらか見当が付くと思います。ゲームでは、物語中盤においてアリアの身体に「ある秘密」があることが明かされます。ネタバレの範疇となる為、深くは明かしませんが、彼女の身体的特徴はまさに、大衆が望む姿の反映であり、「若くあること」・「美しくあること」を求められる女性の苦しみの隠喩として受け取れます。
・ステレオタイプな「まなざし」からの脱却
ゲームでは、このように「まなざし」の持つ暴力性と、岩倉アリアの特殊な身体的特徴とを並行して描写し、物語を進行していきます。ですが、ゲーム中盤のある出来事をきっかけとして、これらのアリアの特殊性は失われます。この「きっかけ」は、ゲームをプレイしていただきたいですが、ここまで見てきた言葉を使うなら「まなざし」からの脱却、「ジェンダーのパフォーマティビティ」からの解放によるものといえます。
アリアは、北川壱子の純粋な好意によって、聴衆の奇異の視線から解放され、大衆が望むのではない、ありのままの自分を想像できたのかもしれません。「GL(ガールズラブ)」や「百合」ももちろんですが、「神秘性の喪失による女性性の獲得」こそが本作に通底するテーマとなっています。
ゲームでは、岩倉アリアと北川壱子の視点を通じて、繊細なラブストーリー、ステレオタイプな「まなざし」からの脱却を見事に描いています。岩倉アリアと北川壱子の関係は、単にロマンチックなだけでなく、彼女たちの成長と自己発見の物語でもあります。彼女たちが直面する社会的な障壁や葛藤は「ファンタジー」的な想像力を基にしていますが、ジェンダーの固定観念を打ち破る重要な役割を果たしています。1960年代という男性優位の社会を変えるための女性同士の連帯、すなわちシスターフッドとして、極めて重要な作品です。
結語
いかがでしたでしょうか。耽美な世界観と幻想的なグラフィック、そしてジェンダーイデオロギー的メッセージの力強さ。まだまだ国内では珍しい「シスターフッド」の物語が、これだけ強度の高い作品として登場したことは大変意義深く感じます。
物語の進行においては、少々駆け足に感じる部分や、1966年という舞台設定を十分に活かし切れていないように見受けられる部分もあります。また、10時間程度とコンパクトなプレイ時間でもありますので、伝奇的な側面とテーマとのバランスが不釣り合いに思える箇所も見受けられるなど、アドベンチャーゲームとして全く課題を感じていない訳ではありません。ですが、「GL(ガールズラブ)」や「百合」を経て、女性同士の連帯「シスターフッド」へと展開していく筆致は素晴らしく、本作が一つの旗印として持つ役割は極めて重要なことだと感じます。午後ねむるさんの今後手がける作品、また本作に続くような「シスターフッド」、ケアの物語の登場も楽しみにしていたいと思います。